昭和天皇を心から尊敬し讃えたマッカーサー | 日本の世界一

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2009年9月25日

昭和天皇を心から尊敬し讃えたマッカーサー

終戦直後の1945年9月27日、昭和天皇はGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーと会談。「全ての戦争責任を負う」との陛下の発言にマッカーサーは大いに感動し、「私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである。」と後年、語った。

1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇(1901-1989)による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を表明し、日本は敗北を受け入れ、大東亜戦争は終結した。
8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ) のダグラス・マッカーサーが日本に進駐した。
マッカーサーは第一生命ビル(千代田区有楽町1-3-1)にGHQ総司令部を設け、皇居を見下ろす6階の執務室で、日本の占領政策に着手した。

9月27日、敗戦国の国王となった昭和天皇は、敵将マッカーサーに会うために、アメリカ大使館公邸を訪れた。
大使公邸の玄関で昭和天皇を出迎えたのは、マッカーサーではなく、わずか2人の副官だけだった。

マッカーサーに会った昭和天皇は、こう語ったと伝えられている。
「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」

この言葉に、マッカーサーは驚いた。彼は、昭和天皇が命乞いにくるのだろうと考えていたからだ。
自らの命と引き換えに、自国民を救おうとした国王が、世界の歴史上あっただろうか。
マッカーサーはこの時の感動を、『回想記』にこう記している。
「私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに、天皇に帰すべきではない責任までも引受けようとされた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った」

この時マッカーサーは、次のように返答したという。
「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」(藤田侍従長による『侍従長の回想』)

マッカーサーは、立ち上がって昭和天皇の前へ進み、抱きつかんばかりに天皇の手を握りしめて、「私は、初めて神の如き帝王を見た」と述べた。
わずか37分間の会見で、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は、まったく変わっていた。
会見前は傲然とふん反りかえっているよな態度をとっていたマッカーサーが、会見後には昭和天皇のやや斜め後ろを歩くような敬虔で柔和な態度で、会場から出て来たという。
会見後、マッカーサーは予定を変更して、自ら昭和天皇を玄関まで見送った。

当時、ソ連やアメリカ本国は「天皇を処刑すべきだ」と主張していたが、昭和天皇の態度に感動したマッカーサーは、これらの意見を退けて、自ら天皇助命の先頭に立った。

敗戦直後、廃墟と化した街で、人々は飢えに苦しんでいた。
12月頃、昭和天皇は松村謙三農林大臣(当時)に、「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分にはたえがたい」と述べられた。
そして、皇室の御物の目録を農林大臣に渡され、「これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい」とおっしゃった。
その後、幣原首相(当時)が、マッカーサーへ御物の目録を差し出すと、感激したマッカーサーは、「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。かならず食糧を本国から移入する方法を講ずる」と請け合ったという。
松村農林大臣が書いた『三代回顧録』には、「これまで責任者の私はもちろん、総理大臣、外務大臣がお百度を踏んで、文字どおり一生懸命に懇請したが、けっして承諾の色を見せなかったのに、陛下の国民を思うお心持ち打たれて、即刻、〝絶対に餓死者を出さぬから、陛下も御安心されるように・・・・・・〟というのだ。・・・・・・それからはどんどんアメリカ本国からの食糧が移入され、日本の食糧危機はようやく解除されたのであった」と記されている。
昭和天皇の捨て身の御心が、マッカーサー総司令官の心を動かし、飢えた国民に食糧が届けられたのだ。

それから約6年後の1951年4月、アメリカ本国のトルーマン大統領と対立するようになったマッカーサーは、大統領から更迭を指示され、日本を離れた。

1955年、重光外相(当時)は安保条約改定に向け、ダレス国務長官と会談するためにアメリカへ渡った。
重光外相は訪米前に、昭和天皇に拝謁した。
昭和天皇は、「もし、マッカーサー元帥と会合の機会もあらば、自分は米国人の友情を忘れたことはない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝して、その健康を祈っている、と伝えてもらいたい」と、外相に伝えた。

重光外相は訪米すると、ニューヨークにいたマッカーサーを訪ね、昭和天皇の御言葉を伝えた。
マッカーサーは、「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである」と語った。
さらに、マッカーサーは昭和天皇と初めて会見した日を回想し、昭和天皇が「自分はどうなってもかまわない。自分は全責任を負う」と述べられたことに触れて、重光外相に、こう語った。

「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪を贖うことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした。陛下は御自身に対して、いまだかつて恩恵を私に要請したことはありませんでした。とともに決して、その尊厳を傷つけた行為に出たこともありませんでした。どうか日本にお帰りの上は、自分の温かいご挨拶と親しみの情を陛下にお伝え下さい。その際、自分の心からなる尊敬の念をも同時に捧げて下さい」

参考資料

「昭和天皇」(出雲井晶/日本教文社)
「大東亜戦争と被占領時代」(名越二荒之助/転展社)
日本政策研究センター – アーカイブス  昭和天皇・マッカーサー会談の「事実」