月のクレーターに命名された天文学者 麻田剛立 | 日本の世界一

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2009年10月5日

月のクレーターに命名された天文学者 麻田剛立

江戸時代の天文学者、麻田 剛立は、西洋に先駆けること150年、世界で初めて、独自の計算により、1763年9月1日の日食を予言。日本で初めて近代的な天文学研究を行ない、伊能 忠敬や緒方 洪庵へとつながる、日本の近代学問の大きな流れを生み出した。また、現代物理学の大発見・ケプラーの第3法則を独自に発見していた。その偉業を讃え、国際天文学連合により、月のクレーターの一つが「ASADA」と命名された。

麻田 剛立(あさだ ごうりゅう)

1734年、豊後国杵築藩(現在の大分県杵築市)に、儒者 綾部 絅斎 (安正)の第四子として生まれた。本名は綾部 妥彰(あやべ やすあき)。

幼い頃から天体に興味を抱き、医学を学ぶ傍ら、天文学、暦学を独学した。

1763年(宝暦13年)に、当時使用されていた幕府の宝暦暦に記されていなかった9月1日の日食を、独自の計算により予言して的中させ、名声を高 めた。従来一定不変と考えられていた天体運動が、常に変化する函数によるものであることを指摘したものである。計算によって正確に日食の日を予想したの は、世界初。西洋で計算によって日食が割り出されたのは、それから150年後のことである。

1767年(明和4年)、34歳の時に杵築藩主の侍医となり、藩主親貞の難病治療の妙薬を作ったといわれているが、侍医の仕事が忙しくて天文の勉強 が出来ないことから、何度も辞職を申し入れた。しかし受理されなかったことから、1772年(安永元年)前後に脱藩して大阪に移り、先祖の出身地である麻 田村の名を取り、麻田 剛立と名乗って、医師をしながらひたすら天文の研究を続けた。天体現象を観測し、それが起こるメカニズムのモデルを仮定し、更なる観測により検証する、という近代的な天文学研究を、日本で初めて行なった天文学者。

麻田学派 は、日本全国にいる研究者と密接な連絡を取り、江戸や、越中、伊勢、安芸、岡山、讃岐など、より多くかつ正確なデータを考察し、その結果を理論研究に フィードバックさせていた。また、天体現象の起こる時刻や天体の高度・方位をはじめ、各種の精密なデータを集めるために、自ら子午線儀(しごせんぎ)、象 限儀(しょうげんぎ)、垂揺球儀(すいようきゅうぎ)など多くの観測機器を考案、改良している。

1795年(寛政7年)、幕府による改暦事業に剛立が 招かれたが、高齢を理由に辞退し、弟子の高橋至時(たかはし よしとき)と間重富(はざま しげとみ)を推薦した。高橋と間は寛政の改暦に中心的役割を果 たした。完成した「寛政暦」(1798年施行)は、西洋天文学に基づいて作られた日本最初の暦で、中国の天文書『暦象考成後編』に基づき、太陽と月の運動 にケプラーの楕円理論を採用、麻田 剛立創案の消長法(しょうちょうほう:日・月・五惑星の運動に関係する天文定数は年により変化する)を加味している。「寛政暦」は、国内最高の研究者グループ・麻田学派の研究の集大成といえる。

高橋 至時 重富の他、西村 太沖山片 蟠桃 正永足立 信頭といった天文学者を輩出したのも、麻田の功績。弟子の中には、測量と地図作成に関わりのある者が多く、剛立なくしては、至時の天文学、忠敬の測量・地図作成などがなかったといえる。やがて伊能 忠敬緒方 洪庵の適塾へとつながり、日本の近代学問の大きな流れを生み出すことになった。

麻田は、 17世紀初頭に発表された、「惑星の公転周期の2乗は、太陽からの平均距離の3乗に比例する」というケプラーの第3法則を、単独で解明していた。ニュート ンの万有引力へとつながる現代物理学の大発見を、独自に理解していたのは、日本天文学史上最大級の快挙と言ってよい。
剛立の高弟高橋 至時は、享和3 (1803) 年、フランスの天文学者ラランデの『天文学』を訳出した。その後、「ケプラーの第3法則」を見て、「コレ 曽(かつ)テ麻田 剛立翁ノ考ヘル所ノ術ニシテ、暗ニ此ノ篇ノ意ト相符ス、奇ト云フベシ」と述べている。剛立の法則の発見は、独自の研究の結果であった。もちろん、ケプラーの発見より後であることは明らかである」
<大分歴史事典HPより引用>

麻田の功績を称え、国際天文学連合により、月のクレーターの一つが「ASADA」と命名された。