台湾の水の恩人 中島力男
2007年12月11日
元嘉南水利組合水利課長・中島力男(2005年100歳で没)は、八田與一の建設した烏山頭ダムで、水路の設計や施工、農業指導等に従事した。特に三年輪作給水法の完遂に尽力し、戦前の台湾で飛躍的な農産物の増産を実現。独自の勾配3000分の1の水路を考案、大阪府の面積にも匹敵する嘉南平野を緑の大地に変えた。 この記事の続きを読む
技術世界一:シェア世界一、土木・建築世界一、生物・医学世界一、精神・文化世界一:忍者の発生と歴史・アニメ、自然世界一:世界遺産、天文世界一、スポーツ世界一、スポーツ優勝記録、日本が世界に誇る偉人、ノーベル賞に近い日本人 、外国に貢献した日本人 、世界が讃える日本、世界で活躍する日本人など、日本人自身が知らない日本が誇る世界一をご紹介していきます。
元嘉南水利組合水利課長・中島力男(2005年100歳で没)は、八田與一の建設した烏山頭ダムで、水路の設計や施工、農業指導等に従事した。特に三年輪作給水法の完遂に尽力し、戦前の台湾で飛躍的な農産物の増産を実現。独自の勾配3000分の1の水路を考案、大阪府の面積にも匹敵する嘉南平野を緑の大地に変えた。 この記事の続きを読む
第一次大戦の終結とロシア革命により、独立を勝ち取ったポーランドは、独立運動でシベリアに拘留されていた孤児の救出を各国に要請した。唯一日本が、1920(大正9)から22年にかけて、765人の子供達を助け出し、全国からの寄付や支援も受けて手厚く介護し、全員を順次ポーランドへ送り返した。1995年1月、阪神大震災の翌日からポーランドは復興支援に来て、その夏、孤児をポーランドに招待。80年前に助けられた孤児の人達は高齢をおして各地から駆けつけ、偉大な日本人の功績を語って、子供達を激励した。
1901年、マニラで日本雑貨の輸入業を始めた太田恭三郎は、1905年に移民70名とともにダバオ(ミンダナオ島)に移り、米国人や比人も近づかない未開のバゴ、ミンタル地方で麻園の経営を始めた。 この記事の続きを読む
東京帝大医学部で学び、1937年春に東ドイツ・ベルリンの伝染病研究所の研究員となった肥沼信次。1945年に帰国指示がくるが肥沼は帰国せず、腸チフスが蔓延し、唯一の医師も死亡したヴリーツェンに向かい、伝染病医療センターに勤務して、寝る間も惜しみ医療活動を続けた。肥沼自身もチフスに感染し、いかなる看護や薬を使う事も拒み、ヴリーツェンにて1946年3月8日に死亡。
西岡京治。1964年より28年間農業指導。稲の並木植えや新品種の導入、野菜・果物の栽培普及、国家開発にも精力的に従事し、国の発展に絶大な貢献。同国の野菜の8割は西岡が広めた。今も愛され尊敬される。 この記事の続きを読む