国際自動車連盟の公認レースでの世界初の女性優勝者 井原慶子
2008年4月07日
1999年、若手レーサーが集まる「フェラーリーチャレンジ」世界大会で、男子を押しのけ2戦連続優勝。最優秀選手。2002年、「アジアンフォーミュラ2000」で優勝。現在、イギリスF3唯一の女性ドライバー。
技術世界一:シェア世界一、土木・建築世界一、生物・医学世界一、精神・文化世界一:忍者の発生と歴史・アニメ、自然世界一:世界遺産、天文世界一、スポーツ世界一、スポーツ優勝記録、日本が世界に誇る偉人、ノーベル賞に近い日本人 、外国に貢献した日本人 、世界が讃える日本、世界で活躍する日本人など、日本人自身が知らない日本が誇る世界一をご紹介していきます。
1999年、若手レーサーが集まる「フェラーリーチャレンジ」世界大会で、男子を押しのけ2戦連続優勝。最優秀選手。2002年、「アジアンフォーミュラ2000」で優勝。現在、イギリスF3唯一の女性ドライバー。
2006年1月、92歳で女性初の柔道九段に昇段。米サンフランシスコ在住、現役柔道師範。八段は福田と二星温子(故人)のみだった。その下は山口香六段。1964年東京五輪で形の演武を行い、1966年の渡米後は全米柔道協会形指導部長などを務め、オーストラリア、フィリピン等世界中で70年間指導中。 この記事の続きを読む
63歳176日に、世界最高峰のエベレスト(8848m)の登頂に成功した渡辺玉枝。 2002年5月16日に成し遂げられた、女性の世界最高齢記録樹立のニュースは世界中を駆け巡った。 この記事の続きを読む
2002年、アメリカンフットボールプロリーグ(NFL)ピッツバーグ・スティーラーズの球団専属のトレーナーに就任。NFL史上初の女性トレーナーとなる。スティーラーズは2006年のスーパーボウル(優勝決定戦)を26年ぶりに制覇。女性スタッフとしても日本人としても初めて世界一のNFLチャンピオンリングを手にした。 この記事の続きを読む
1930年6月22日、日本人初のアメリカ・ヨーロッパ・アジアの三大陸横断飛行に単独自費で挑戦。アメリカのロサンゼルス空港を飛び立って、ヨーロッパからシベリアを渡り、8月31日、立川飛行場に降り立った。70日間掛けて、航路18,000キロの単独飛行成功は世界を驚かせ「日本のリンドバーグ」と呼ばれた。
1998年6月、英国マン島郵政公社が発行した43ペンス切手。1959年のマン島TTレース初出場6位入賞よりホンダの常連として6戦全部入賞。
1952年5月19日、午後8時16分、日本初のボクシング世界タイトルマッチのゴングが鳴った。場所は後楽園球場の特設リング。リング上に立つのは世界フライ級チャンピオン、米国のダド・マリノと挑戦者の白井義男。集まった観衆は4万人。日本ボクシング史上、未だ破られない世界戦での動員数最高記録である。
江戸時代の力士。最高位は大関だが、生涯成績254勝10敗、勝率9割6分2厘、連続優勝7回という驚異的な戦績を残した。それだけの実力がありながら、何故横綱になれなかったのかは、現在も謎のままである。あまりに強すぎたため「張り手」「鉄砲」「閂(かんぬき)」を禁じ手とされたという逸話は有名である。
2002年5月17日、23歳9日で世界最高峰であるエベレストの登頂に成功し、7大陸最高峰(セブンサミット)登頂最年少記録を達成した山田淳氏。世界最年少という記録とともに、世界で初めてノートPCを持って登頂し、起動に成功するという偉業も成し遂げている。
毎年8月に米国フロリダ州オーランドで開催されるワールド・ヨーヨー・コンテストは、日本人の独壇場である。2006年大会も7部門のうち5部門で日本人選手が優勝した。
日本の合気道の創始者・植芝盛平。剣道、槍、合気柔術などを学び、独自に研鑽を積んで1919年、「植芝塾」道場を開設。10人の銃を持った自衛隊と対決した時、10人が一斉に盛平に向かって銃を撃つが盛平はそれをひらりとかわして、相手を投げ飛ばしたという逸話が伝わっている。
プロ野球黎明期の選手、巨人創立時の1番打者で初代主将。1935年のアメリカ遠征では109試合で105盗塁という驚異的な数字を記録し、アメリカ人を驚かせた。
大日本帝国海軍の軍人、戦闘機パイロット。昭和13年の初陣以来、九六艦戦、零戦を駆って大東亜戦争の最後まで活躍。200回以上の空戦で敵機大小64機を撃墜したエース(撃墜王)。自らの戦記を綴った『大空のサムライ』(英語版題名”SAMURAI”)は各国語に訳され、世界的ベストセラーとなった。
「何事も、あきらめるのは最後でいいと思う。まず一歩でいいから、何かやってみればいい。別に山に登らなくても、ピアノでもいい。人生は常に今日からしかなく、いつだって遅いということはない。三日坊主を10回繰り返せば30日坊主になる」2003年、当時世界最年長70歳222日でチョモランマ登頂を果たしたプロスキーヤー及び登山家・三浦雄一郎の言葉である。
<読売新聞北海道支社 「第2回よみうりほっと茶論(さろん)」>
1977年(昭和52年)9月3日、後楽園球場での対ヤクルト戦。3回裏の第2打席、先発の鈴木康二朗からライトスタンドへ通算756本目の本塁打を放ち、米大リーグの大打者ハンク・アーロンの持つ通算本塁打記録を塗り替える世界記録を達成した。
巨人の元投手。1934年に来日した大リーグ選抜チーム相手に、第8戦に登板した沢村は敗戦投手になったが、8回を投げ5安打1失点9奪三振と好投し、「スクールボーイ・サワムラ」の名を世界に知らしめた。