日本の世界一

世界初 脊椎動物の排卵酵素発見 高橋孝行ら

2005年6月、北大大学院理学研究科の高橋孝行教授らのグループが、メダカを使っての研究で、脊椎動物の排卵に作用する酵素を世界で初めて発見した。

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食道ガン由来「ガン幹細胞」発見 伴貞幸

2005年4月、放射線医学総合研究所フロンティア研究センター放射線感受性遺伝子プロジェクトの伴貞幸主任研究員らは、食道ガン由来の培養細胞から「ガン幹細胞」を発見した。この細胞は自己増殖能だけでなく、細胞の性質が変わる分化能をもっていた。詳細に検討すれば、ガン悪性度の評価手法の開発につながり、食道ガンの予後の悪さを改善できる可能性が出てきたという。

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史上最強の大関 雷電為右衛門

雷電為右衛門は、江戸時代の力士。最高位は大関だが、生涯成績254勝10敗、勝率9割6分2厘、連続優勝7回という驚異的な戦績を残した。それだけの実力がありながら、何故横綱になれなかったのかは、現在も謎のままである。あまりに強すぎたため「張り手」「鉄砲」「閂(かんぬき)」を禁じ手とされたという逸話は有名である。

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「動脈硬化のペニシリン」スタチンの発見 遠藤章

コレステロール合成阻害薬、動脈硬化などの血管障害性疾患治療薬である「スタチン」は、世界中で約3,000万人の患者に使われている。その基となる「コンパクチン」(ML-236B)を世界で最初に発見したのは、当時三共製薬の遠藤章だ。コレステロールの代謝に関係する「LDL受容体」の研究で、ノーベル生理学賞を受賞したブラウンとゴールドスタインは、遠藤のコンパクチンが大いに役立ったと称え、「遠藤博士がスタチン研究の歴史を開いた」と語っている。

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多自由度管状マニピュレータの開発 オリンパス

1999年、オリンパス。直径1mmで、体内の細管部に挿入する管状の診断・治療器具であるカテーテルの先端部を全方向に曲げられる多自由度管状マニピュレータを開発した。

マニピュレータとは人の腕や手指の機能を持つマシンのことで、さらにそれを微細化したのものがマイクロマニピュレータと呼ばれる。

マイクロマニピュレータは顕微鏡下等で微少量の注射や微小電極を用いての細胞操作を行うマイクロ・マシンのことである。

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「ヤン・ミルズ理論」をいち早く完成させていた日本人 内山龍雄

理論物理学者 内山龍雄(うちやま りょうゆう)は、素粒子物理学のみならず、宇宙の誕生・進化まで解明が期待されている統一場理論の基礎となるゲージ理論の第一人者である。一般ゲージ場論は、一般相対性理論と並ぶ物理学の最重要基礎理論。

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タンジブル・ユーザーインターフェイスの世界的研究者 石井裕

直接手でデジタル情報に触って操作(タンジブル)できる画期的インターフェイス、「タンジブル・インターフェイス」を開発したのがマサチューセッツ工科大学(MIT)の日本人教授石井裕だ。
従来のコンピューターは、キーボードやマウスを用いて、一人のユーザが扱うことを前提としていたが、この開発によって、これからのコンピューターは、誰もが情報に直接触れながら操作できるという、より実態感のあるものになる。

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月のクレーターに命名された天文学者 麻田剛立

江戸時代の天文学者、麻田 剛立は、西洋に先駆けること150年、世界で初めて、独自の計算により、1763年9月1日の日食を予言。日本で初めて近代的な天文学研究を行ない、伊能 忠敬や緒方 洪庵へとつながる、日本の近代学問の大きな流れを生み出した。また、現代物理学の大発見・ケプラーの第3法則を独自に発見していた。その偉業を讃え、国際天文学連合により、月のクレーターの一つが「ASADA」と命名された。

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ブラジルで「実に好ましき人種」と讃えられた日本人

1908年6月、ブラジルに初めて移住した日本人たちは、清潔で規律正しいことや従順な態度が高く評価され、「実に好ましき人種」「将来サンパウロ州の産業は日本人に負うところ大であろう」とブラジルの新聞『コレイオ・パウリスターノ』で絶賛された。2008年は、日本人がブラジルへ移住して100周年目にあたる。日本とブラジルは、これを記念し「日本ブラジル交流年(日伯交流年)」として、様々な交流イベントを開催している。

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親日国トルコを作ったエルトゥールル号遭難者介護

トルコは親日国として知られている。そのきっかけとなったのは、「エルトゥールル号遭難事件」だった。1890(明治23)年に日本訪問を終えたトルコ使節団が乗る軍艦エルトゥールル号が和歌山県大島の樫野崎沖で沈没した時に、村民は69名を救助し献身的に介護した。帰国できたトルコ人らは、日本人の親切さを語り続け、この出来事はトルコの歴史教科書に載るほどになった。今でもトルコのほとんどの人がこの事件を知っているという。 この記事の続きを読む