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2007年9月29日
1952年5月19日、午後8時16分、日本初のボクシング世界タイトルマッチのゴングが鳴った。場所は後楽園球場の特設リング。リング上に立つのは世界フライ級チャンピオン、米国のダド・マリノと挑戦者の白井義男。集まった観衆は4万人。日本ボクシング史上、未だ破られない世界戦での動員数最高記録である。
白井は1923年、東京都荒川区三河島に生まれた。初めてボクシングと出会ったのは小学6年生の時、近所の夜祭りの余興で行ったカンガルーとのボクシングだったという。
「学校の前の広場にサーカスがやって来ましてね。『カンガルーを相手にボクシングで戦う』という余興がありました。友達におだてられて、それに挑戦したんです。初めてグラブを手にしましてね。右手をほおに付けて、左手を目の位置に、ひじを体に付けるように締めて、戦いましたよ。真剣に。でも、こいつが実に強い。カンガルーがフリッカー・ジャブを繰り出してくる。僕もすきをとらえて何発か打つと、「キュー」と声を上げて退去する。でも、ちょっと油断したすきに尾で体を支えて反撃、強烈な一発が僕の急所に入りました。ボクシングでは下半身の攻撃は違反ですから、結局は僕が反則勝ち。ボクシングとのかかわりはここからでした」
<荒川の人 -白井 義男- より引用>
1943年11月に拳道会に入門し、プロデビュー。8戦全勝の成績を残すが、海軍に召集され、戦地に赴いた。戦後の1946年にボクシング界に復帰するが、戦地で痛めた重度の坐骨神経痛により精彩を欠き、引退寸前の状態だった。しかし、一つの出会いが白井の運命を大きく変えることとなった。
1948年7月15日、連合軍総司令部(GHQ)の天然資源局に勤務し、海洋生物の調査を行っていたアルビン・R・カーン博士は、調査活動の帰りにたまたま、御徒町の日拳ジムを訪れた。アマチュアボクシングのコーチ経験があり、時々、日本のボクシングジムに出入りしていたカーンは、白井を見て、その素質を見抜き、コーチ兼マネージャーとしての専属契約を申し出た。腰痛を抱えていた白井は躊躇したが、結局契約を結ぶことになった。
カーンは白井を自宅に住まわせ、肉類などを摂取させて栄養を十分に与え、健康管理を徹底させた。また、それまでの日本ボクシング界には無かった指導方法を実践した。
「科学的トレーニング」
筋力トレーニングを取り入れ、体力と筋力の向上に努めさせた。結果、白井は持病の腰痛を克服出来た。また非科学的な練習を否定し、早朝のロードワークを「してはならない」と禁止したそうである。
「基礎の徹底した反復練習」
防御と正確なパンチ技術を向上させる為、白井のフォームのチェックを繰り返した。皆が嫌がるジャブの練習などを何週間も続けさせた。左ジャブだけを2時間続けて打たせたこともあったという。
「アウトボクシング」
日本で初めて、これを指導したのはカーンである。当時の日本は打たれても、ひたすら前に進む攻撃主体のボクシングが主流で、アウトボクシングは好まれなかった。しかしカーンは白井に「打たせずに打つ」防御重視のボクシングを指導。「卑怯者」「つまらない」という批判を浴びながらも、2人はこのスタイルを貫き通した。
白井はカーンの指導の元で次々と勝利を重ね、翌1949年には日本フライ級、同バンタム級の二階級制覇を達成。白井のアウトボクシングに対する批判は消えていった。
1950年9月、カーンはハワイを訪れ、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノと白井の対戦を実現させる為に奔走。翌1951年5月21日にダド・マリノを日本に呼び、ノンタイトル10回戦を行うことに成功した。その試合は判定で敗れたが、同年12月4日、王者の地元ハワイ・ホノルルで行われたノンタイトルのリターン・マッチでは白井が7回TKO勝ちを収め、白井の実力が世界レベルであることを証明した。そして遂に翌年5月19日、ダド・マリノ相手に日本初のボクシング世界タイトルマッチが実現することとなった。
世界戦の前日、強いプレッシャーを受け、怖じ気づく白井にカーンはこう言った。
「「日本は戦争でアメリカに負け、今の日本で世界に対抗できるのはスポーツだけしかないだろう。ヨシオ、君は自分のために戦うと思ってはいけない。それだけでは苦境を乗り越えられない。敗戦で失われた日本人の自信と気力を、君の勝利で呼び戻すのだ。」(白井義男『ザ・チャンピオン』より内容を要約して引用) 」
<その時歴史が動いた - 番組紹介 8月 より引用>
午後8時16分、ゴングが鳴った。右アッパーを連打するチャンピオンと、基本に忠実なボクシングで応戦する白井。試合は接戦となり、お互い15ラウンドを戦い抜いたが、白井が3-0の判定で勝利。日本人初のボクシング世界チャンピオンの座を獲得した。当時、テレビはまだ無く、ラジオ東京(現TBS)が生中継し、日本中が熱狂に沸き返った。
当時は現在と違い、ボクシングの世界団体は1つ、階級はフライ級からヘビー級まで全8階級しかなく、つまり世界チャンピオンは8人しかいなかった。団体が乱立し、多くの階級に分割された現在とは比べ物にならないくらい、ボクシング世界チャンピオンの価値が大きい時代だった。
その3週間前の4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、我が国はようやく独立国に復帰したが、まだまだ敗戦の痛手から立ち直っていないこの時期の快挙は、「フジヤマのトビウオ」水泳の古橋広之進の世界新記録連発と共に、私たち日本人に計り知れない勇気を与えてくれた。
その後、白井は4度の防衛に成功したが、1954年11月26日、アルゼンチンのパスカル・ペレスに15回判定で敗れ、王座から転落。翌年のリターンマッチでも敗れ、現役を引退した。
カーンは白井の現役時代、ファイトマネーの管理を一切任されていたが、白井が引退した時、自分の指導料は一円も受け取らず、そっくり全額を白井に渡したという。白井も身寄りのない生涯独身のカーンを家族の一員として受け入れ、晩年重度の認知症に罹ったカーンを手厚く看護して、臨終の際まで看取った。
白井は現役時代も、引退してからも、常に謙虚な人柄だったと多くの人が語る。ある時、どうしてそんなに謙虚なのかと聞かれて、白井はこう答えたという。「世界王座を奪取して花道を帰るときです。著名人や関係者にあいさつを終えた僕に、コーチのカーン博士が球場の最上段を指さしてこう言ったんです。ヨシオ、わずかな生活費を握り締めて応援に来たあの人たちの気持ちを忘れてはいけない、王者になっても謙虚な心を忘れるな、と」
<nikkansports.com > 社会TOP > おくやみ より引用>
引退してからも白井はカーンの言葉を忠実に守った。「事業やジム経営は失敗もつきまとう。おまえは日本人初の世界王者だ。後々まで日本の若者のお手本でいなければならない」という忠告を守り抜き、引退後は事業に手を出すこともなかった。
<nikkansports.com > 社会TOP > おくやみ より引用、一部改変>
2003年12月26日、白井は死去した。享年80。他の多くの日本人世界チャンピオンと違い、引退後は表に出ることも少なく、カーンの言った「日本の若者のお手本」を最後まで守り通して、旅立って行った。