世界一の水道 | 日本の世界一

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2009年9月25日

世界一の水道

江戸時代、江戸の水道は規模世界一であった。水道の起源は、天正18(1590)年、徳川家康が江戸に入り、家臣大久保藤五郎に命じてつくらせた小石川上水(後の神田上水)であり、その後、江戸の発展により、玉川上水(1648)、青山上水、三田上水、亀有上水、千川上水など6つの上水がつくられた。

当時、江戸の人口は100万人を超えていた(世界一の人口)が、下町は上水が行き渡り、山の手は一部で利用され、江戸の人口の六割に水道が普及していた。

江戸6つの上水の総延長は150キロに及んだといわれ、給水人口、その規模は世界一であった。17世紀のロンドン、パリの人口は40から50万人程度であった。

パリは近隣の泉水を導水し、市内に流れるセーヌ川の水を風車で揚水していた。

ロンドンでは、30キロ離れた泉水を導水する水路(総延長60キロ)があった。

ロンドンでは配水本管は地上に露出していたが、江戸の町中では大部分が地下に木管(樋・枡)を埋設されていた。

江戸の樋・枡には地形や水勢によって、埋枡(地下)、高枡・出枡(地上)、水見枡(蓋があり、水の質(清濁)と量(増減)を検査)、分岐枡、溜枡などがあった。

完成後の玉川上水系は江戸城内をはじめ四谷、麹町、赤坂の高台や京橋方面を給水し、総延長85キロだった。

取水口の羽村村から四谷大木戸までは開渠(掘割水路)で高低落差が92m、ちょうど馬の背に当たるところに水路が作られ、後に出来る分水が巧みな自然勾配で途中の新田集落を潤した。四谷大木戸より先は江戸の町に入り暗渠化されていた。

水質・水量管理もされており、水番人が見回り塵芥を除去し水質を保全し、水量の調節も行っていた。

取水口の番人は上流が豪雨の時は水門を閉じ、濁り水を川に還流し、逆に日照り続きで渇水時は給水制限をしていた。

当時、これほどの規模の飲用水専用の人工的水路は江戸の外に世界のどこにも見あたらなかった。

参考図書

「水道の文化」鯖田豊之 新潮選書
「水道の文化史」堀越正雄 鹿島出版会
「江戸上水の技術と経理」榮森康治郞・神吉和夫・肥留間博 クオリ
東京都水道歴史館